昭和46年06月16日 朝の御理解
御神誡 一、「幼少の時を忘れて親に不孝のこと。」
あの人は正直者じゃ神仏のような人じゃ、と言うても段々不幸が次々と起こって来ると、と言ったような御理解がありますね。けれども本当に親孝行な人と言うのは、不幸せになったと言う例を聞いた事がない。皆さんの周囲を眺めてごらんなさい、成る程あの人はとても良い人じゃと、仏様のごとある人じゃけど、どうしてあんなに難儀が続くじゃろうかと言うのはありますけど、もうあの人は村一番の孝行もの、真から親によう仕えなさる、親孝行な人が不幸せになると言うことは無いですね。
これは確かに信心があっても無かってもですね、親を大切にすると言う事は、親孝行をすると言うことは、もう天地の心にそのままが通うのでしょうね、きっと。ですから皆さん周囲を見てごらんなさい、本当によか人じゃばってん難儀の続く人はあるばってん、親孝行な人が、不幸せになると言う事はありませんですよ。本当に心から親を大切にする、と言う人に不幸せはないと、今日はここんところ頂き改めてね、信心頂いておってから、頂く教えはない様に思いますけども、信心頂いておりましてもです。
案外ここんところが出来ていない事が多いのです。ここに幼少の時を忘れて、とこういう。そこで私は本当に親と言うものは、親そのものが宝でなくて、親を大切にすると言うこと自体が宝だと思いますね。親そのものが宝ではなくてね、親孝行をすると言う事はね、それに付随して来るものそれが宝なのです。だからここでは、おこる筈はありません。けれども私もそれを感じます、親孝行ぐらい天地の親神様の喜んで下さる事はないと思う。ですから何も分からない初めてお参りなさった方。
今どうでもおかげを受けなければならんと言う為に本気で親孝行すると言う事を実行しなさい、思うてみなさい。親不幸行しようとは思ってないけれども、もう本当に親孝行したい、私がこういう難儀を致しております事を、親がどの位それを苦にするか悲しんでおるか分からない。 親に喜んで貰いたいから、おかげを受けたい、本気で親に喜んで貰いたいからと言う願いであったら、願いの筋も立つ、もう親がござらんなら、御先祖様になっとられる親を大事にする。
帰ったらすぐ仏壇の中の掃除させて貰うて、親の好きなものでもお供えさせて貰うて、生々とお花ども取替えさして貰うて、お灯りども上げて親に挨拶をする。これからはこういう事を実行させて貰うと言うことを、親先祖に誓わせて頂きなさいと言う様なことを私は、親を大事にして親が喜ぶ、親が喜ぶ姿をみて自分たちも喜ばしくないと言うことがあろう筈がない、又の御理解に三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれると言うあそこは、三宝様と言うのは穀物の意としてありますね。
けれども私は親をですね、言わば三宝様の様な気持ちで頂く、本気で親に喜んで貰うと言うこと、勿論親に喜んで貰うと言う事は、親を安心させる、親に安心して貰えることなんです。 今日は私はね、改めて気が付いたと言う訳ではないけれども、今日ここんところを頂いてですね、本当に夜の中に親孝行者と言う事は知ってます何人も、信心はありませんけれども確かに幸せですね、本気であの人は子供の時から親孝行でしたと言う人がおりましょうが、その人は必ず幸せになっとります。
何とはなしに、だから信心をしておっても親に不孝している人があります。これはそんな事があり得ないのですけど、そうなのです。私は本当にそういう一っの家風と言うかね、そういう事が実際に、親に喜んで貰おう、親を大切にすると言う様な一っの風習と言う、それが絶対のものとしてならせて頂く様に出来たら、私ども安心して年が取れるだろうと思うですね。年を取ってから子供に大事にして貰わんならんから、親孝行すると言うのではないんですけれども、それが代々送りになって来る。
そういうおかげを頂かして頂く、親に孝行すると言う心がです、親に喜んで貰うと言う心がです、しかもそれが止むに止まれん思いで親に喜んで貰う心がです、もうこれは絶対神様につぎつぎに神様に通う。確かにそこから生まれて来るおかげは宝だ、してみると親は宝だと言う事になる。結局宝ものの様に大事にする、心を配らして貰う。昔から親孝行の話は幾つも残っとります。いわゆる孝子伝と言った様なものがあります。
まあ孝子伝ならずともです、私ども本気で養老の滝と言うものの話などを思わして頂いて、それはもう出来んことが分かっておるからでなくて、止むに止まれん思いが親に向けられる、そこにはね思いもかけない矢張りおかげを受ける、徳を受ける、よくあの難儀が続きましてね、御施餓鬼をしなさいとか、先祖祭りをしなさいとか言うのがありますですね、追悼をしなさいと言う事があります。
次々難儀なことが起きるから御先祖祭りをしたり、御施餓鬼をしたり、と言う話を聞いたんですけども、だから神は強ちですね、それはお祭りをしたからではなくて、いつもそういう親先祖の粗末になっておる事に気付かせて貰うて、これからは大切にさせて頂こうと言うのでなからなければ意味はないと思う。ただ行ってお参りしただけで、ただ御先祖祭りをしただけと言うのはいけないと思う。
これからは心入れ替えて先祖を大事にさせて頂こうと言う様な殊勝な心がけになれば、確かに不幸な事が幸いなことに変わってくると言う事も、これはいなめませんですね。今日は一っ本気でですね、親先祖を大事にさせて頂く、しかも今日だけじゃないのですけれども、ここの御理解を頂くと言う事は、私は初めての様な気が致しますね。これは信心させて頂いておれば、親孝行させて頂くことは当たり前、余りにも当たり前の様になっているけれども。信心させて頂く者がそう言う様な。
切実な止むに止まれん思いで、親に孝行したくてたまらんと言う心で親に仕えておるだろうか、自分がこうある事は親が悲しむ、そこで自分が改まる、自分がこんなに難儀しておる事が親が悲しむ、だからどうでもと言うて願う願いならば神様に通う、これは私自身の事を申しましてもそうである。私が本気で信心させて頂こうと言う気にならして頂いたのは終戦引き揚げ、そして幾度の難儀苦労、こういう中に両親が親に孝行も出来んなりに、もし死なれる様な事になれば大変な事だと思うた。
それで両親健在の中に何とかおかげ頂きたいと言う、これがもう第一の願いでありました。そこに例えばその為には の修行をさして貰いました。どうでしょう両親の喜んで頂く為に、親に本気で孝行させて頂く為に、その事の為の修行がいると、ただ撫でたり擦ったりする事がですよ、親孝行とばかりは思われません。だから親に本当に喜んで頂けれる私、親に本当に安心して貰えれる私にならして頂く事の為に、一っ修行させて頂く様な親孝行がね私は大事、これなら間違いのない親孝行が出来ると私は思います。
それはもう言うならば宝ものを大事にする様なもの、絶対それには宝ものが伴うて来る。これは信心がなかっても改めて今日はそれを感じるのです。本当に信心は無かっても、あの人は子供の時から親孝行じゃったなあと言う人は皆幸せになっている。だからそれと反対の事が言えます。どんなに儲け出す様にあっても、どんなに幸せそうにしておっても親に背いた人、親に安心して貰えなかった人達はそれの反対の事が言えると思う。これはね天地の心に通わないからでしょう。
親に孝行すると言うことは天地の心に適うから信心はなくても矢張りおかげは頂くのです、あの人は仏様の様な人、神様の様な人と言うても次々難儀な事がある、これは事実私の周囲に沢山あるけど、真から親孝行であった人が不幸せであると言うことは未だ見た事がない、聞いた事がない、と改めて今日私は思う。それが私ども信心でなされる、その為に本気で親に喜んで貰う、安心して貰うと言うことの為に信心が出来る、修行が出来ると言うことになったら、素晴らしい親孝行ができる。
幼少の頃を忘れて親に不孝のこと、それはもう誰でも聞き流す、そうどこちゃないと思う。けれども事実、自分の手元のところを考えてみるとです、親孝行が出来ていないとするなら、そこからだけでも神様に通わない、いわば御気感に適わない事になって来る。幼少の時を忘れて親に不孝のこと、と言うことは余りに当然過ぎる当然のことですが、その当然のことが出来ていない、その証拠にはですね、親の事を真から願う人が少ないですね、もう子供のことは繰り返し繰り返し願われますけどね。
親の事を真から願う人はすくない、子供が可愛いなら親を大切にせよ。これはね弓削村から参って来る或る方ですがね、もう椛目時代でしたが、子供が居なくなったのですね、それから内々で探しよったけれども、夏の事ですし、川やらが有りますから、近所にとうとうお願いしてから探したんですけど居ない、それでここに願いに来ました。それで私が申しました、子供の事を親が願うのはこれは当たり前ですけれど。
また子供が親の事を願うのも当たり前ですけれども、仲々親の事を切実に願わない。子供が居なくなったと思うて、それこそ気も転倒せんばかりにびっくりした、それで親の事の願いが欠けておった事を分からせて貰うて、しっかりお詫びをして下さい。帰ってから親に手をついて詫びる事はいらんから心で詫びて帰えんなさい。そしたら、つんくり返しに御礼に出てきました。
もう帰る途々親先生の言いなさる通りに、親に孝行出来なかった事を自転車に乗って一生懸命お詫びをして帰りました。帰りましたらおかげで子供が見付かりましたと。自分方の屋根の上に上がっとった、そしてそこで寝て覚えなかったと言っております。それが一寸義理があるものですから叔父さんが大変叱った、それから二階に上がってから泣きよったが、泣き寝入りにちゃんと寝て終ってから夕方まで出て来なかったと、そして夕方になった出て来た。
ここから帰ったら、すぐ又つんぐり返しにお礼に出て参りましたと、だから時分の胸に手をおいてみて、だから親不孝はしとらんけれども、真から親に喜んで貰いたい、親に安心して貰いたい気持ちが薄らいで少ないならです、その事を本気で詫びる気にならして貰うて、改めて親に安心して頂く事の為に修行でもさせて頂く心になる、そこから本当な親孝行させて頂けれる、親に喜んで貰えれるおかげを受けられる。
今日は改めて思うこと、これは信心はなかっても、あの人は本当に子供の時から親孝行でしたよとちよっとそれを思うてみた、そしてここを頂いた、だから皆幸せです、ましてや信心で言う親孝行と言うのは、少しは又意味が変わって来るか知れませんけれども、勿論深いものではありますけれども、宝ものの様な思いで親を大事にさして頂く信心、その為に一っ修行させて頂こうと言う様な気になれば、その心に神様が動きなさらん筈はない、そんな風に思いますね。
どうぞ。